講師紹介 | 三鷹連雀音楽教室

講師紹介

 

hayasaka

早坂 優子(代表)
【ピアノ・リトミック担当】

国立音楽大学教育音楽学科リトミック専攻を卒業し一般企業に勤めたのち
ピアノ教室を自宅にて開設(三鷹連雀音楽教室)
その後リトミック研究センターに所属しディプロマAを取得
保育園にてリトミック指導経験あり。
現在、三鷹連雀音楽教室にてピアノとリトミックを指導

 

♪所属している勉強会・研究会♪

・リトミック研究センターの月例研修会≪リトミック・ティーチング法≫
→主に1歳から5歳までと小学生を対象としたリトミックの指導法をこちらで学んでいます。

・馬淵明彦先生のサークル『プティ・ジャック』≪リトミック&即興演奏法≫
→リトミックの動きや考え方など、更に磨くために、馬渕先生のご指導を仰ぎながら勉強しています。

・高木伸治先生の『リズムトレーニング』
→ポップスやジャズなどの演奏、クラシックの演奏のためになるリズムのトレーニングを高木先生のご指導を仰ぎながら勉強しています。
高木伸治先生は、プロのベーシスト・ミュージシャンです。

・黒河好子先生の『メソッド研究会』≪ピアノ指導法≫
→黒河先生がヨーロッパで獲得された指導法で、ピアノを弾くときの指の形や弾き方、音の出し方についての最新の情報を勉強しています。

・ピティナ(一般社団法人全日本ピアノ指導者協会)指導会員
→ピティナ主催のステップ(発表会)に参加するなどの活動をしています。

・日本ジャック=ダルクローズ協会≪リトミック≫
→日本での正しいダルクローズ・リトミックを勉強するための会です。
こちらでもリトミックに関する最新情報を得ています。

・ピアノランドメイト会員
→樹原涼子先生の著書ピアノランドの楽譜に関しての勉強会に参加しています。
教本の教え方や、コード(和音)の綺麗な音の出し方なども勉強しています。
樹原涼子先生の門下生として、発表演奏会に出るため、月に1回レッスンに通っています。

・高田美佐子先生のフォルマシオン・ミュジカル講座
→フランスの最新の音楽勉強法をこちらの講座で勉強しています。

・平野真理子先生の『かるがも会』≪リトミック》
→正しいダルクローズ・リトミックを勉強しながら、更に深くリトミックの指導法を仲間と一緒に考えながら勉強しています。

 

私の歴史 Q & A

Q1 自分がどんな子どもだったか?

小さい頃は、体が弱く、幼稚園は休むことが多かった。
母はそんな私が心配で、しかも4人兄弟の末っ子で兄弟とは歳も離れていたため、かなり過保護に育ったと思う。
何でも母が先回りをして用意してくれて、あまり自分で考えたりすることがない状態だった。
性格的にもおとなしく、自分を前に出すのが苦手だった。

でも幼稚園でのお遊戯会で、お友達がラッパを吹く真似をする役をもらったのに、その子ができずに泣いてしまい、結果的に私にその役が回ってきて、見事お遊戯会でその役をやり切った、という思い出があり、、
それから考えてみると、おとなしくはあったが、度胸だけはあったような気がする。
小学生になってからも、母に伺いを立て、何事も自分で考えることを極力しない子どもだった。
作文も母に何を書けばいいかを聞く始末だった。なぜなら、毎年の年賀状に書くちょっとした言葉も、母が全て目を通して、変なことを書いてやしないかとチェックされていたので。。。自分の言葉で気持ちを書くことがタブーだったのだ。

Q2 どんなことが好きだったか?

3歳から某大手音楽教室へ入会し、そこで音楽が聴ける耳を育てていただいたので、当時は音楽のレコード(古い^^;)をよく聴いていた。
そのレコードというのが、ジャズの曲集。
兄のために叔父が買ってくれたレコードだったのだが、私は4人兄弟の末っ子なので結果的に私が貰い受けてずっと聴いていた。
それこそ穴の開くまで・・・(穴は開かなかったが^^;)
くるみ割り人形の曲などが、ジャズ風にアレンジされていて、とても素敵な演奏だったのを今でも覚えている。

Q3 得意だったことは?

前述の通り、某大手音楽教室で音感を身につけることができたので、
4歳の時点で、音を言い当てる絶対音感がついた。
5歳の頃には、何回か聴いただけの曲を自分流にアレンジしてオルガン(この頃はまだピアノが家に無かった)で、楽譜なしの状態で両手で伴奏をつけて弾くことができた。
ちなみに、初めて聴き取って弾いた曲が、ヤクルトスワローズでもよく演奏されている『東京音頭』で、周囲の大人達から驚かれた。

その他に得意だったのは、作曲をすること。
これも、ヤマハ音楽教室内の演奏会で弾く曲に選ばれて、自作の曲(まだ短い曲だったが)を演奏させてもらった。

Q4 ピアノの先生になろうと思ったキッカケは?

小学1年生の時に、某大手音楽教室をやめて、個人レッスンのピアノの先生に習い始めた。
なぜ、そうしようと思ったかと言うと、ちょうどその頃、家にピアノを購入してもらい、ピアノが好きになって、しっかり習いたいと思ったから。

そして、習い始めてから、その先生が大好きになって・・・(教えるときはちょっと怖いけど、ピアノが終わるとジュースやお菓子を出してくれて、いろんなお話を聞いてくれた思い出がある)・・・こんな先生に憧れて、自分も大きくなったらピアノの先生になる!とここで決めたのである。
しかし、そうは思ってもまだまだ小学1年生。ピアノのレッスンは楽しかったが練習は大変だった。。。

Q5 ピアノの練習で苦労したことは?

音感が先で耳が良くなってしまった結果、音がわかるので指番号は無視するわ、指の形は気にせず弾いてしまうわで、それを直すのが大変だった。
これをきちんと直さずに弾き続けてしまうと、難しい曲になった時に弾けなくなってしまうのだ!
当時はそんなこと知る由もなかったが。

だから、私の先生は常に指のことを注意し続け、、それがあったから今があると思う。
ただ、曲は弾くのは好きだったが、やはり指の練習はあまり好きではなかった。

ここでまた我が母の登場!

母は一度もピアノを弾いたことが無かったが、本当は自分も弾きたかったんだそうで、本気で弾けてすごいね、と思ってくれていたらしい。
その通り私に、いつも『すごいね、綺麗だね、もっと聴きたいな、』と声をかけ続けてくれていた。
これが、自分がモチベーションが上がり、ピアノを辞めないで済んだ『魔法の言葉』だった、と今になって思う。
これについては母には本当に感謝している。

Q6 小学生になってからは?

小学4年生だったか、小学校の鼓笛隊に入って、ベルリラや小太鼓などを演奏していた。
この頃は、かなりな人見知りで、自分から話しに行くなどができない子どもだった。
世話好きなお友達がいてくれたおかげで、学校では一人になるようなことはずっとなかったが、それでも、当時は自分の唯一気兼ねなく話せる相手がピアノだけだと思っていた。
ピアノを弾くときは言葉が要らないので。

しかし、小学6年生の時に転機が訪れ、、家の事情で引っ越しをして、学校も2学期から転校することになってしまい、、、ここから現在のおしゃべりな私のキャラがちょっとずつ生まれ出たのだった。
転校すると、自分から話しかけなければお友達ができない!
そのどうしてもやらなければいけない状況に置かれた私は、親から禁じられていた家の内を話すことを自分自身で解禁したのだった。
そう、友達に自分を知ってもらうために、全てさらけ出して話そう!
なぜかそう思うことができた。
それにより、この頃から少しずつ自分を変えていくことができたのである。

ところで、大好きなピアノの先生が小学2年生の時にご主人の転勤で海外へ行ってしまい、それからしばらく先生探しが難航した。
最初に良い先生についた私は目が肥えていたのか、他の先生に習いに行っても、自分の演奏が下手なのにも関わらず丸をつけてくれる先生達のことが理解できず、小学校3年生からずっとしばらく自分の価値観に合う先生を探し続けていた。
小6で転居して、そこで初めて自分が納得できる先生と出会い、そこからまたしっかりとレッスンを受けることができるようになった。
ここまでで、習った先生は最初から数えると5人目となっていた。
この5人目の先生は、大学を卒業するまでずっと続けて通ったが、私のことをしっかりと理解してくれて、更にどうしてできないのかをわかりやすく丁寧に教えてくれた。
私は知っている曲だと楽譜をほとんど見ずに弾いてしまうので、私に与えられる曲は、みんなも聴いたことが無いような知らない曲がほとんどだった。
当時は、お友達は有名な曲をたくさん弾いてるのに、なぜ私は知らない曲ばかりなの?とちょっと憤慨していたが、今ではそれがとても勉強になったと思っている。

Q7 中学生になってからの音楽歴は?

中学生になると、毎年音楽祭があって、合唱をクラス対抗で戦うというイベントがあった。
この合唱コンクールでは、課題曲と自由曲の2曲があるので各クラスから2名ずつ、ピアノ演奏者と指揮者を選出する。
ここでも私は人見知りキャラ(恥ずかしがり屋)が発動してしまい、ピアノが弾けるのになかなか手が挙げられず・・・3年目にしてようやく挙手し、ピアノの演奏者の座を得ることができた。
この時、私と一緒に立候補しピアノの演奏者になったお友達が、選んだ曲が難しくてどう弾いていいのかわからない、と言うので、私が練習に付き合って弾き方を教えた。

この時が初めてピアノを人に教えた経験だった。
ただ、この時期は高校受験が重なっているので、ピアノレッスンにはしばらく通わず、半年くらいのお休みをしてしまった。
(こればかりは仕方ないとは言え、当時レッスンを休まなくても合格はしていただろうと思う。今では、休まなければ良かった!と後悔しきり。)

Q8 高校生になってからの音楽歴は?

受験して国立音楽大学附属高等学校に入学し、そこでは毎年ピアノと声楽のテストがあった。そのため、部活などには入らず、とにかく毎日帰宅してすぐピアノを練習していた。
この頃が一番練習したと思う。
音大附属なので、ここではみんながピアノが上手。

特筆するようなことは無かったが、耳が良かったおかげで、大学から講師で教えにきてくださっていた、皆から怖いと評判の和声楽の先生の授業が楽しかったのを覚えている。
ただ、声楽は、、、普通に歌うのと違って歌い方が特別なため、どうしても思うように声が出ず、かなり苦戦した。

Q9 大学に入ってからは何をした?

高校が附属だったので受験はせず、内申だけで国立音楽大学のリトミック専攻科に入学。
大学では、リトミック・和声楽・作曲法・ソルフェージュ・歌・ピアノ・キーボードハーモニーなど、音楽の基礎を授業で学んだ。
この時初めてリトミックに出会う。
おそらく、幼児期に某大手音楽教室でもこれに似たことはしていたかもしれないが、体系的に学ぶのはこれが初めて。
大学2年生か3年生の頃、大学主催で外部向けにリトミック授業の夏期講習があった。その際、リトミックでちゃんと動けていた学生(つまり真面目ってことだろうと思うが)の中に選ばれ、故・板野平教授の授業でデモンストレーションをさせていただいた。
しかし、大学の授業でどうしても苦手だったものが、ピアノを弾きながら歌うこと。
声楽の歌い方がまだマスターできず、歌とピアノがチグハグになってしまうのだ。

この授業の時は、先生の目が本当に怖かった。
今では、リトミックのレッスンをする以上、歌いながら弾くことは必須項目なので、必死に練習してできるようになってはいるが、このことは苦い思い出のひとつである。
部活はブラスバンドでパーカッションを担当。
この頃は大学以外で、友達と一緒にアマチュアバンドの活動をしていて、そこでドラムを演奏していた。
このバンド内でも、私が耳コピ(音を聴いて楽譜に起こす)ができたので、コーラス(いわゆるハモリ)の部分などの音を拾って楽譜に書いたりしていた。

Q10 いつからピアノの先生になったのか?

大学を卒業する前に、友人の通っていた音楽教室にピアノの先生としてアルバイトで着任。
その時が対価をいただいてレッスンをした最初だった。
ただ、その後、学校を卒業してから、しばらくの間は、普通の会社に事務職として就職。
何年かしてから、友人からピアノを習いたい子がいる、とお話をいただき、そこから先生業を開始。
その後、就職していた会社も退職し、ピアノの先生として専念することとなった。
ただ、当初はまだリトミックのレッスンを行ってはおらず、ピアノのレッスンだけをしていた。

そして、2008年に結婚!
この結婚に至るまでが実は大変で、、親は私を手元に置いておきたくて、私が連れてきた今の主人をなかなか認めてくれなくて、、、結局、足掛け8年間、親の説得に時間がかかったのだった。
しかし、どんなに時間をかけようと、私には親を説得することが必要だったのだ。
今では、反対していた親も、今の人と結婚できて良かったね、と言ってくれている。
ピアノ&リトミック教室を続けることは、家事が時間的に遅くなってしまったりするので家族の理解が必要。
その理解をして更に手助けしてくれていること、本当に感謝している。

Q11 リトミックを教えるようになったのはいつから?

実はピアノを教えていただけでは、どうしても上達しないお子さんがいて、その時にリトミックが効果があることを再認識したことがあった。
そこで、国立音楽大学の先生方が立ち上げたリトミック研究センターに入会し、そこでもう一度リトミックを6年間勉強し直して、それから自分の教室でもリトミックを教えるようになったのが、今から7年前。(この記事を書いたのが2022年度)
研究センターのリトミックは、子どものためのリトミックで、確かにリトミックを幼少期から受けていたお子様方は、明らかに受けていなかったお子様と比べて様々な能力の向上が見受けられている。
7年前にリトミックのレッスンを始め、当時1歳からずっと通ってくれている小学3年生になったお子様方を見るにつけ、本当にやって良かったと思っている。
これからは、リトミックの本場(ジュネーブやアメリカ)で勉強された平野先生に教わりつつ、大人も受けられるリトミックを目指して勉強中。

 

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